診療案内
阿部(あぶ)および伊座利(いざり)診療所の思い出
私は平成16年4月より、それまで約16年間勤務していた徳島健生病院整形外科リウマチセンターを退職し徳島県海部郡美波町(当時は由岐町でした)の由岐病院整形外科に転職しました。由岐病院とはいっても主な勤務先は美波町(旧由岐町)阿部診療所および伊座利診療所でした。週間スケジュールとしては毎週月、水、金曜が診療所で火、木曜が由岐病院での勤務でした。 由岐病院は整形外科だけの診療で健生病院とあまり変わらない仕事でしたが、診療所では整形外科はもちろんのこと、他にも、内科、小児科など自分の専門外のことまで否応なく診療しました。幸い私は大学卒業後、徳島健生病院の臨床研修コースに進み、内科、小児科、など各科ローテーションで2年半勉強していたおかげで全く右も左もわからないということはなくすぐに慣れていきました。時々重症者が出てもすぐに由岐病院に搬送できるためいわゆる離島での診療所勤務のようなストレスは少なかったように思います。しかしそれでもいわゆる『へき地』の診療所なので医療機器も最小限しか完備されていないため機械に頼らない診察と診断を要求されました。しかしながら本来、診察とは患者さんの身体をくまなく見て診断を下すのが基本であり、最近の医療が診断機器に依存しすぎる傾向がある中、このような環境で診療を行えたことは、私自身医師としてとても貴重な経験をさせてもらえたと思います。
さてこの2ヶ所の診療所のうち、とくに思い出深いのが伊座利診療所です。診療所とは名ばかりで診察机と椅子が1組と診察ベッドが1台だけの狭い診療所でした。患者さんの待合スペースはとても狭くパイプ椅子が5脚置いてあるだけでした。ここでの診療は毎週水曜日の午後2時間ほど行いました。いわば隣の阿部地区にある阿部診療所の出張診療所という位置付けでした。この伊座利診療所での診療はまさに前述した医療機器に頼らない(頼ることができない)覚悟が必要でした。(レントゲン装置も心電図装置もないので)
私は実のところこの伊座利地区で平成16年4月から平成19年3月までの3年間家族ともども暮していたのです。おまけに診療所は私たちが住んでいた住宅の一画にあったのです。ですから、毎週水曜日の定期診察日以外に朝も夜も関係なく診察依頼がくることがあり、慣れるまでは相当な緊張の連続でした。健生病院時代の夜間当直も相当ハードでしたが、伊座利での3年間も別な意味でハードでした。伊座利地区の人口は100人ぐらいでしたので、診療所を受診される患者数は少なく、ほとんどが高齢者の方でした。しかし、早朝、深夜を問わず往診依頼がくることもありました。また伊座利で暮らしていた3年間に2名の患者さんを自宅で看取りました。整形外科医ではまず経験できないことの連続でした。
さらに、由岐中学校阿部分校、由岐中学校伊座利分校、阿部小学校、伊座利小学校の校医も委嘱されたため、定期健診や予防接種なども自分なりに勉強しながら取り組みました。
ともかく伊座利での3年間は診療所の医師としてまた住民として楽しくもありつらくもあった3年間でした。
さて平成19年4月からは二男が徳島市の高校に進学することとなったため本来の自宅がある徳島市に帰ってきました。この頃から本格的にクリニック開業の準備を開始しました。
しかし、由岐病院、阿部診療所、伊座利診療所は辞めることなく勤務を続けました。そのため毎日徳島市から海部郡美波町まで往復110kmを通勤しました。まわりからは「本気か? 大丈夫か?」と言われ続けました。途中で正直挫折しかけたこともありましたが、家族の励ましなどのおかげで、本年3月末までの2年間徳島市からの通勤を続けることができました。結果、大きな病気や事故もなく5年間の勤務を全うすることができました。
美波町由岐地区、阿部地区、伊座利地区の住民のみなさんはどの方も素朴でやさしく親しみやすかったです。一方、漁師で気性の荒い方もおられたため時には叱られたりもしましたが、今では良い思い出として私の心の中に残っています。
現在クリニックを開院してから10年を超えました。ここに書かせてもらった5年間のへき地での診療体験は、それまでの16年間に培ってきた勤務医としての自信と経験を、ある意味で大きく覆させられるものでした。しかしこの5年間の経験により私は医師として大きく成長できたと思っています。これからも開業医として、また地域でのかかりつけ医として患者さんとしっかり向き合える医師であり続けるため常に精進していくつもりです。
濱田佳哲